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なんで1×0は、0にしかならないんだろうね

2014-05-04

 

「なんで1×0は、0にしかならないんだろうね」
彼女は、シャーペンの先で顎をつつきながら、そういった。
芯が出ていないにしたって、そんな尖ったものを、と内心冷や冷やしてしまう。
「そもそも、存在しないと定理されたものをかけようとするなんて意味がわからないよ」
これがよくある、「こんなこと勉強して何の役に立つの?」系の現実逃避ならよかったけれど、こいつの場合はそうじゃない。
俺は忘れないうちに「よって、f(x)=1-3+C=1 から C=1」までノートに走り書きしてから、口を開く。
「1は存在しなかった。ゆえに0であるって意味何じゃないの?」
「1は最初からなかったってこと?」
「そう」
「おかしいよ。だとしたら、1×0という計算式自体の存在すら、なくなるよ」
初夏の風に煽られて、カーテンが靡いた。
窓側の席だとあれが目の前でぶわってなったりして、結構ビビるんだよね。
「1は、一体どこに云っちゃったのかな…」
そんな彼女のノートを盗み見ると、俺の解いていた問題なんて消し跡一つ残さず、迷わずに解答し、更に四つ先の問題に進んでいた。
数学に文学的思考を持ち出すような人間が、数学得意だなんて、天のパラメーターはどうかしている。
「あるはずだったものが、消されたってことではないんだよね。最初から、あるはずがないって前提で生かされる式なんだよね」
雲なんて浮かぶ隙がないほど、長方形に切り取られた空はどこまでも青い。
「やだな、そういうの…」
彼女の長い髪が、ふわりと舞う。
……さっきから、「彼女」「彼女」と云っているけれど、これは恋人としての「彼女」ではなくて、一般的に女性を指す代名詞なのだと、遅れませながら弁解させて欲しい。こいつとは腐れ縁であってそれ以上でもそれ以下でもない。
誰もいない教室で、放課後二人きりの甘酸っぱい勉強会、などでは断じてないのだ。
見た目は中々に可愛い腐れ縁は、どうやら引く手数多で密かに彼女を好いている人間は多いのだが、如何せん、前述のようなことを唐突に口にする人間である。
しゃべってみたいから仲立ちをしてくれという友人達からはことごとく、「ごめん、電波は無理」と返品されてきた。
…随分とまあ、失礼な話である。
流石に電波は云いすぎだ。いいとこ、不思議ちゃんくらいにとどめておけ。
少女は、青い空を見上げる。
ないと定理された「1」を探すように。
「1といえば、」
と彼女は再び口を開く。
シャーペンで顎をつつくのは止めたようで、俺は密かに安堵した。
「iが1になるまでに4乗しなきゃいけないのも大変だよね」
この場合の「i」とは、虚位単数である「i」と、ラブという意味の「愛」が掛かっている。
確かに、初めてこの授業を受けた時は衝撃的だったけれど、まさかこいつとおんなじ思考回路だったとは…。
どうやら長年毒に冒され続けて俺自身も毒になったようだ。
「iの二乗が-1にしかならないのは、辛いな…」
「愛は、奪い合うものだってどこかの小説家も云ってなかったっけ」
ああ、思い出した。有島武郎だ。
「奪うの?与えるんじゃなくて?」
「そりゃ、理想論だろう」
だとしたら、世界の離婚率はこんなにも高くない。トルストイも真っ青だ。
人が人を殺す事態もぐっと少なくなることだろう。
二人分の愛があってもマイナスにしかならないのは、それが人間の本質だからだ。
iの三乗が-iなのは、きっと、三角関係の末の話だろう。
「失うから、かな…」
彼女は、小さく呟く。
え?と聞き返した俺に、彼女は、えっとねと眉をハの字にして口を開いた。
「死別だったり、離別だったりして、愛した人とずっとずっと一緒って訳にはいかないでしょ?いつかは独りになる時が来る。だから、-1」
それは失われた人の数なのか、遺された人の数なのか…。
そうして、-1になって、相手がいかに大事だったのか、失いがたかったのかに気付くのだろう。
「0じゃないなら、いいんじゃないの?」
今度、え?と聞き返したのは、見た目だけは可愛いと評判の幼馴染みである。
「0じゃないってことは、遺されたものがあるってことだろ。別れても失っても、その経験は0にはならない。辛い経験かもしれないけれど、ちゃんと数になって残ってる。存在はしてる」
「だから、-1?」
「そう、だから-1」
ああ、そうか。と彼女は零し、納得したのか腑に落ちたのか、顔をノートに戻していった。
俺も「よって、f(x)=x3《xの三乗》-3x-1」と上がってしまう口角を必死に下げながら、ノートに書き込む。
実は、こうして満足した時のこいつの顔は、無茶苦茶可愛いのだ。

サムネイル 写真素材 足成 様 http://www.ashinari.com/

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