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出来ることなら桜の下で

2014年6月9日

1.蜘蛛が出た

一番最初に自宅で蜘蛛を見つけた時は、思わず悲鳴を上げた。
らしくないとは思ったけれど、生理現象だから仕方ない。
蜘蛛だってびっくりしただろう。
宵の蜘蛛は殺してはいけないというけれど、生かして放してあげられるほどこちらだって余裕はないのだ。
殺虫剤などないから、制汗スプレーを持って追い回す。
手の平ほどもの大きさのあった蜘蛛は、ぴくりぴくりと身体を震わせて死んでいった。

それから、毎日のように蜘蛛が出た。
機密度の高いマンションの一室に一体どうやって入り込むのか。
侵入口は実に様々らしく、排水溝は勿論、玄関を開けた途端に滑り込んだり、時には網戸をわざわざ開けて侵入してくる。
それも一匹や二匹ではない。
何十匹も、ワラワラと。
当然眠れやしないから、私は夜通し蜘蛛と戦うはめになる。
仕事で疲れて帰ってくるのに、家に帰れば、闖入者(ちんにゅうしゃ)と死闘を繰り広げるのだ。
それでも他に行く場所がないから、私は家に帰るのだけれど。

そんな日々が続いて。
眠れぬ日々が続いて。
私の不眠状態を心配した同僚が、蜘蛛を退治しようと家を訪問した。
窓はもうずっと前から蜘蛛が入れぬように目張りをしてある。
排水溝という排水溝は、使用時以外は重い蓋で厳重に封をしてある。
それでも蜘蛛が侵入してくるのだ。そう訴えた私を同僚であるその男は、宥めるように云ったのだ。
そんなに恐いなら家を越せばいい。それができないのなら、自分が対処しようと。
とにかく、対処してもらってそれでもダメならば引っ越す、私はそう納得して、気の進まぬまま彼を家に招き入れた。
カサカサカサ、と。
特有の足音が、部屋に入った途端に発する。
ああ、嫌だ。本当に嫌なのだ。何故、私の家だけ。
しかも今日に限って、帰宅を出迎えるだなんて。
いつもならば、私が帰宅して少し経ってから湧き出て来るというのに。
室内の電気をつけると、白いはずの天井が一面、真っ黒く塗りつぶされていた。
「いやああああああああああああああああああああああ」
真っ黒な天井はざわざわと蠢く。
今にも糸を垂らして下りてきそうなその群れに、私は絶叫した。
「落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられないわよ!」
なんで。なんで私ばっかりいつもこんな目に遭わなければならないのだ。
彼は私の両目を大きな手の平で覆う。
「やめて!」
視界が奪われたら、奴らが私に近付いてきた時わからないじゃないか。
どうして対処すればいい。どうやって奴らを殺せばいい。
「落ち着いて!」
落ち着いてなんていられるか。
もうずっと。ずっとずっとずうっと、こうなのだ。
私の家は、こんななのだ。
これでどうして正気を保っていられるだろう。
「落ち着いて、深く息を吸って」
そんなことしたら、蜘蛛が口の中に入ってきてしまうかも知れないじゃないか。
「大丈夫。僕を信じて下さい、さあ」
息を吸って、吐いて。
そう、彼は繰り返す。
痙攣が治まる頃、私の身体はいつの間にか横になっていた。
「よく聞いて下さい。この部屋には貴方の云うような蜘蛛は何処にもいません。この部屋は至って正常な綺麗な部屋ですよ」
透き通るような男の声に、私はもう一度奇声を上げる。
そうして意識を手放した。

2.目が覚めると隣には、見知らぬ男が眠っていた。

目が覚めると隣には、見知らぬ男が眠っていた。
「え、誰…?」
幸いにもお互いにきっちりと服を着ているから、何事もなかったのだろうと信じたい。
怯える私を余所に、彼はもぞもぞと身じろぐと、ゆっくりと焦れるような速度で瞼を開いて、「おはよう」と微笑んだ。
「おはようじゃないよ!誰!ここ、何処!何があったの?!」
喚いた私に迷惑そうな顔一つしない。
むしろ彼はほんの少しだけ微笑んで、私の頭を撫でた。
「部屋に蜘蛛がいっぱい湧いて困ってたことは覚えてる?」
覚えている。あんなこと忘れられそうにない。下手したら一生トラウマになってしまいそうだ。
「安心して。もう二度とあんな事は起こらないから」
見知らぬ男性だというのに、彼の優しい口調でそう言われてしまうと、そうなのか、と納得してしまいそうになるから不思議だ。
そもそも、私はこの人のことを知らない。
何故、同じベッドで寝ていたのだろう。
夢現だけれど、夜な夜な彼は私の頭を撫でてくれていた気さえするのだ。
「あの、貴方が蜘蛛を退治してくれたの?」
彼は、小首を傾げると、今度は少しだけ寂しそうに笑ってみせる。
「まあ、そんな所です」
何故彼が笑うたびに、胸の奥がちくりと痛むのだろうか。
むしろ、一人暮らしの女の家で、しかも同じベッドで眠るような男に同情したり、ましてや罪悪感を覚えるなんて私は一体全体どうにかしている。
「すみません、自己紹介が遅くなりましたね」
彼は、ベッドの上でちょこんと正座をすると、三つ指を揃えて口を開いた。
「実は僕、貴方の恋人なんですよ」と。

3.皮膚に、虫に卵を産み付けられたと彼女は絶叫した。

肌に、皮膚に、虫に卵を産み付けられたと彼女は絶叫した。
よくよく彼女の話を聞いてみると、毛穴につまった角栓が虫の卵みたいで気持ちが悪いという。
それから彼女は、よく顔を触るようになった。
ちょっとした凹凸があれば、そこから角栓をつまみ出そうとする。
そんなことしたら毛穴が開く一方で、肌が汚くなってしまうのに。
鏡がないと手探りで、鏡があれば目敏く探す。
これでは予防なんてできやしない、八方塞がりだ。
こんなことを繰り返し、つるつるの卵肌だった彼女の顔は一ヶ月も経たずに、毛穴だらけの炎症した肌になっていた。
鼻も、ほっぺもおでこさえ、見るも無惨な有り様で。
彼女の肌は、あっという間に月面のようなクレーターが出来上がっていた。
ダメだよ、と云うたびに、彼女は「私の顔から虫が生まれたらどうするの!」と叫んで返す。
そんなことありえないのに。
散々喚いて泣いて、そうして眠った彼女の額に、僕は唇を落とした。
凸凹になってしまったその肌に、かつてのつるんとした卵肌を嘆いて。

4.ああ、また顔ひっかいた!

ああ、また顔ひっかいた!と彼は泣きそうな顔で私を叱った。
気になるのだから仕方がない。
だって、毛穴になんだか白いものが詰まっていて、それが取れるとなんとも爽快なのだ。
しかも、放っておいた挙げ句に幼虫が孵化でもしてしまったら堪ったものではない。
阿鼻叫喚だ。
顔中地獄絵図だ。
そんなことないよ、大丈夫だよと、彼は私の頭を撫でて、辛そうに微笑む。
貴方の肌はつるつるしていてとても綺麗だったのにねと、心底悲しそうに。
「よし、それじゃあ、その卵を除去するために、顔をよく洗おう」
彼はそう云って、クレンジングフォームをきめ細かく泡立てた。
これで優しく擦るだけで、虫の卵は消えてくれるんだよと、彼は手本を見せてくれる。
こんな泡で消えてくれたら、そんなに楽なことはない。
疑心暗鬼になる私に、じゃあ、と彼は笑っていった。
「もし一ヶ月顔をひっかかずにこれを続けられたら、ずっと行きたがってたレストランに連れていってあげる」
食べ物に吊られたと思われるのは正直悔しいけれど、私はそれを渋々了承する。
思わず了承してしまったのは多分、彼があんまりにも楽しみにしていたからだ。

5.桜の季節が来た。

桜の季節が来た。
一年を通じて、彼女が一番ワクワクする季節である。
花の中で一番好きなものが桜のようで、彼女はしきりに桜並木を歩きたがった。
蕾が膨らむ少し前から、楽しみにするその姿は、まるで子供の誕生を待つ母親のようで。
かつての彼女なら、いい母親になったかも知れないなと、僕はほんの少しだけ眉を寄せた。
仕方ない。
その未来が欲しいのならば、今は彼女の治療に専念するしか道はない。
「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ」
彼女は気に入った桜を見つけるたびに、楽しそうにそう呟く。
そんな楽しげに詠って良い和歌なのだろうかと、見ているこちらが冷や冷やする。
けれど、そうして桜を眺める彼女があんまりにも幸せそうで、僕は、ただただ彼女を見守ることしか出来なかった。

6.私はまた新しいことで彼に注意されていた。

肌の赤らみが落ち着いて、毛穴に虫の卵がなくなった頃、私はまた新しいことで彼に注意されていた。
今度「やめなさい」と云われて止められなかったのは、唇の薄皮を剥くこと。
確かに剥いた後は血が出るし、ひりひりするけれど、どうしても気になって仕方ない。
かさかさのパサパサになってしまったどうしようもない唇の皮を剥いているだけなのに、彼はとても悲しそうな顔をする。
そうして、リップクリームを放り投げるのだ。
別に肌と違って傷跡が残る訳じゃないのに…。
そう、肌は傷、というかクレーターが残ってしまった。
私自身気になってネットで調べてみたところ、肌は、一度クレーターになってしまうと死ぬまで治らないらしい。
あんなに綺麗な肌だったのに、と彼は私の頬にキスをする度、そう嘆いた。
あんなにって…私はいつからこの人と一緒にいたのだろう。
確かに、来週一緒にレストランに行こうとは誘って貰えたけれど、それが果たしてどうしてなのか、まったく思い出せなかった。
身に覚えがなかった。
一ヶ月、肌を綺麗に出来たご褒美だよ、と彼は云っていたから、少なくともそれ以前からの付き合いとなる。
彼のことは忘れていても、スキンケアを怠らないという部分だけが残ってしまっていたことは、不幸中の幸いなのだろうか。
私としては、彼のことを忘れたくなかったのだけれど。
そう。
本当は忘れたくなんてない。
私がこんにちは、と遠慮がちに云うたびに、彼はほんの少しだけ傷ついた顔をする。
多分本人としては隠しているつもりだけれど、隠しきれてなんていないのだ。
どんなに綺麗に笑っていてもわかる。
そうして彼はいつだって、スキンシップ過多に私に接してくる。
頭を撫でて、頬を寄せて、全身で抱きしめる。
それが嫌じゃないから困ったものなのだ。
汚くなった私の肌を見て、きっと彼はさぞや悲しんだことだろう。
何せ彼の口ぶりからすれば、私達は数年来の付き合いなのらしいのだから。
「肌は、一度クレーターになってしまうと死ぬまで治らない」
この言葉はずっしりと胸に重しとなっている。
あれ?死ぬまで治らないということは、死んだら治るんじゃないのか?
なんだ、私ったらこんな簡単なことにさえ気付けなかったなんてどうかしてる。
肌が死ぬまで治らないなら、一度死んでくればいい。
そうして、彼とレストランで食事をするのだ。
なんだ、なんだ。簡単な事じゃないか。
そうしたらきっと、彼だって私の綺麗な肌を見て喜んでくれるだろう。
うまくいけば、彼との記憶も戻るかも知れない。
私は期待を胸に、一本の桜の木へと向かった。

7.

唇の、かさかさな部分を剥く行為は、緩やかな自傷行為である。

やめなよ。いくら治りが早いからってさ。血が出てるじゃん。
ほら、リップクリームあげるから使いなよ。
僕がいくらそういっても、彼女は「だって」とか「でも」とかを繰り返していて、一向に癖は治らない。
「だって」にも「でも」にも生産性がないから、使うのやめなよというと頬を膨らませる。
そのせいか。
彼女とのキスはいつだって鉄っぽい味がした。
そんな彼女がなんの前触れもなく首を吊って死んでしまった。
大きな桜の木の枝で、首を吊ったと云う。
花見のために朝早くレジャーシートを敷きに来た人が、満開の花びらの中で揺らめく彼女を見つけたらしい。
冗談だろうと死体の確認のために駆け付けた僕は、冷たくなった彼女と対面した。
ああもう、また来週ねってあんなに笑っていたじゃないか。
せっかく、君が行きたがっていたレストランだって予約したのに。
ねえ、なんで死んだの?
そう訊けばきっと彼女は、「だって」とか「でも」というだろう。
だから、その言葉は非生産的なんだからやめなって。
そうしてきっと彼女は続けるのだ。
「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころっていうじゃない」と。
西行にも桜にも迷惑だから、やめなさい。
そう、僕は静かに吐き出した。

サムネイル 写真素材 足成 様 http://www.ashinari.com/

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