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いいじゃないか、僕が忘れられるくらい。

2015-03-07

 

アルツハイマー型認知症。
それは、脳が「忘れて」しまう病気だ。
日常の動作を忘れ、親しい人を忘れ、身体の動かし方、食事の食べ方を忘れ、最後に、脳が呼吸をすることを「忘れて」しまう病。

「はじめまして」
そう言って僕は、彼女の病室の扉を叩き、中へとはいる。
急な来客に彼女は最初おびえ、それでもこちらに悪意がないとわかると安心したように笑顔を浮かべるのだ。
そうして、面会時間をいっぱいいっぱい使う頃には、すっかり彼女とうち解ける。
退室を告げる鐘に席を立てば、彼女はイヤイヤをし、僕の袖を掴んで帰るなと駄々を捏ねる。
大丈夫、大丈夫だから、また明日来るからね、また会おうね。
そうして宥めながら彼女を眠りにつかせ、僕は病室を立ち去った。

「はじめまして」
そうして今日も、この言葉から始める。
彼女はおびえ、異物を見るような目で僕を見る。
このやりとりが始まったのは、一ヶ月ほど前のことだった。
物忘れの激しい人だとは思っていたけれど、まさかそれが脳の病気だとはつゆ知らず、医者の診断が降りた頃には、もうどうしようもないレベルに達していた。
若年性のアルツハイマー型認知症はそうじゃなくても進行が早い。
何度もおなじことを繰り返し、被害妄想が激しくなる頃には、進行を遅らせる薬も梨の礫(つぶて)となっていた。
「誰…?」
彼女の名を呼び、入室した僕を、向かえた言葉は小さく震えていて。
手にしていた紙袋の中身が、音を発てて床に散らばる。
違う。覚悟していたはずだったんだ。
いずれ僕の顔も名前も忘れてしまう日が来ることを。
わかっていたはずなのに。
僕は堪らず、病室から駆けだした。
もっと、もっと、時間があると思っていた。
そんなんじゃない。
心のどこかで、自分だけは忘れられないだろう、だなんてなんの根拠もない自信があったのだ。
だって、彼女は僕の恋人で、僕のことが大好きなのだから。
噛み締めた唇から嗚咽が漏れる。
どうしよう、どうしたらいい。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
忘れないで。
僕を、忘れないで。

三日三晩泣いた。
今も彼女は忘れ続けているのだろうか。
この三日間で、一つ一つできないことが増えていくのだろうか。
ボタンの掛け方は覚えているだろうか。
歩く時に靴を履くことを忘れていないだろうか。
ああ……。
いいじゃないか、僕が忘れられるくらい。
だって彼女はこれから沢山のものを奪われるのだから。
彼女はいずれ、手の動かし方も、食べることも、呼吸をすることでさえ、忘れてしまうのだ。
僕を忘れてしまうくらい、些細なことじゃないか。
げっそりとこけた頬を笑って、僕は冷たい水で顔を洗うと、彼女の下着を紙袋に詰めて家を出た。

それからずっと、僕たちは「はじめまして」を繰り返す。
彼女の記憶は、回復しない。
僕のことは忘れたまま。絶対に。
寝てしまえば、今日僕と会ったことさえ忘れてしまう。
それでもいい。
僕が彼女のことを覚えている。
段々とうち解けて警戒を解く姿も、ご飯に喜ぶ声も、笑った顔も、別れを惜しむ表情も、全部全部覚えている。
「桜が、咲くね」
芽吹き始めた枝を見て、彼女は笑う。
「そうだね、一緒に見たいね」
この約束も、きっと君は忘れてしまうだろうけれど。
「うん、約束」
そうして僕らは指切りをかわす。
「うーそついたら、はーりせんぼん、のーます」
指切った、と歌う彼女に逆らって、僕はその細い小指に唇を落とした。

サムネイル 写真素材 足成 様  http://www.ashinari.com/

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