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彼女はそういって、文字通り跡形もなく消えた。

2015-10-18

 

そっか。
ならよかった。
彼女はそういって、文字通り跡形もなく消えた。

恋をすると、まるでそれが初めての恋で、今までのことはままごと、と言ってしまえばとても言葉が悪いのだが、それにしたって、この人を好きになるための準備だったのだと錯覚する。そして、それと同時にこれが最後の恋なのだと、錯覚する。
かく言う僕もその例に漏れず、彼女に恋をしていた。
どこにいても、何をしていても、彼女と一緒なら楽しくて、いつもいつまでも一緒にいたいと、できることならば、このまま一生添い遂げたいと思える人である。
短所さえも愛おしく、受け入れてしまえるそんな相手が、この先の人生で出会えるなんて思えない。きっと彼女を手放したら、一生後悔し続けるだろう。
そんな、相手である。
でもそんな彼女でも、どうしても理解できない部分があった。
たまらなく愛おしくなり、手を伸ばして、華奢なその体を抱きしめる度に彼女は言うのだ。
要らなくなったら、ちゃんと言ってね。
私なんかよりもいい人はたくさんいるよ。
だから、その人に出会ったらちゃんと言ってね。
やさしすぎるその声に、僕は聞くたび泣きたくなる。
だから、強く抱きしめていうのだ。
「大丈夫。ちゃんというよ」
要らなくなることなんてないのだから、安心して僕のそばにいてほしい。
そんな途方もない願いを込めて。

こんな願いを繰り返されたからなのかもしれない。
今となってはどうして大きな喧嘩に発展したのか、原因さえも覚えていない些末なことだけれど、それでも僕たちの違いはどうしたって致命的で。
そんな風に頭に血がのぼっていたからだろう。
僕は言ってはいけないことを言ってしまった。
「もう、君なんて要らない」と。
他に気になる人がいる、だから、もう君なんて要らないのだと。
君だって、ほかに好きな人がいるのだろう。だからそんな呪いのように、まじないのように、僕に言うのだろう。だったらほかの男のところに行ってくれ。
白状しよう。気になる人は、居なくはなかった。
でもそれは、子供が新しいおもちゃに飛びつくような気まぐれで、彼女とは比べるまでもなくて。
だから完全にこの言葉は、僕の、過失でしかなかったのだ。
白い肌に散らしていた朱の色が、彼女の頬からみるみるうちに消えていく。
何度も何度もキスをした綺麗な形の唇は、何かを言いかけたまま中途半端に開いていた。
黒目がちの瞳が、僕を一直線に見つめる。
ごめんなさい、言い過ぎた。
きっと彼女のことだ。普段の喧嘩なら謝る必要もないのに、僕にそういって、詫びるのだ。
彼女よりも幼い精神の僕は、そうして「君が謝ることじゃないよ、僕が悪かったんだ」とやっと詫びることができる。
けれど。
この日ばかりは、違った。
「そっか」
透き通るような、声。
「なら、よかった」
そんな声で、彼女は言った。
泣いてしまう直前の顔を、笑顔に変えて。
その顔が、あんまりにも綺麗で、僕は彼女を引き留めることもできずに、ただただ淡々と荷物をまとめ、扉から出ていく後ろ姿を見送った。

ごめんなさい。やっぱり遊びに来ちゃった。

どこかバツが悪そうに笑う彼女が、玄関先に立っていてくれるのじゃないか。
そんな夢を視ながら、一週間が無為に過ぎていく。
パタンと、作りの良いケースを開け閉めして戯れながら、頬に一筋の涙が伝った。
何を、間違えたのだろう。
あの時、ウソだと言っていたら、彼女は引き留められたのだろうか。
あの時、あんなしょうもない喧嘩に折れていたら、彼女はここにいたのだろうか。
いや、もっと。
もっと、根本的に。
要らなくなったら、言ってねと。
そんな悲しいことを言う彼女に、そんなこと言わないで、と言っていたなら。
僕には君が必要だと、何度も何度も、言ってあげたらよかった。
言えば、よかった。
なんで、そんな簡単なことが言えなかったんだろう。
もともと荷物を運びこまなかった彼女だけれど、それでも、彼女の歯ブラシがなくなった洗面台や、彼女の食器がなくなった台所を見れば、悔いる気持ちだけが後から後から湧いてくる。
好きだった。
どうしようもなく、大好きだった。
「要らなくなったら、言ってね」そんなことを言ってしまう、その弱ささえも、愛おしかった。
戻っておいで。
いいや、戻ってきて。おねがいだから。
どうか僕のそばにいて、笑っていて。
作りの良い小箱を、ベッドの上に放り投げる。
中に入ったダイヤの指輪はきっと、誰の指にも収まることはないのだろう。

サムネイル 写真素材 足成 様 http://www.ashinari.com/

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