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一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

一瞬、何が起こったのか、わからなかった。
僕の小さめの身体が宙を飛び、冷たくて固い地面に叩きつけられる。
でも叩きつけられただけじゃ僕の身体は止まらない。
ぐるぐるぐるぐる、目が回るほど回って、そうしてようやく、ヒトの言う「慣性の法則」から解放された。
痛みに一瞬息ができなくなったけれど、それでも、ほんの少しまでの温もりを追いかけて、僕は投げ出された車を追った。
待って!
待って!
おいてかないで!
いい子にするよ!
ちゃんとお座りも、お手も覚えたんだよ!
いくら叫んでも、車は止まってくれない。
身体中痛くて、全部全部痛くて、もう、何処が痛いのかもわからないくらいに痛いけど、そんなことよりも、ご主人に追い付けないことの方が悲しくて。
悲しくて、辛くて、なきながら車を追いかけていた僕は、対向車に気づかなかった。
ドンっと。
大きな衝撃に、今度こそ、意識を手放す。
ああ、僕、捨てられたんだ。
涙は、出なかった。

僕がご主人の家に住み始めた頃、ご主人は僕を可愛い可愛いといって、たくさん甘やかしてくれた。
ご飯はいっぱい食べさせてもらえたし、トイレの場所も教えてもらえた。
僕がすぐにトイレを覚えると、ご主人は頭のいい子だといって、僕をたくさん褒めてくれた。
散歩はいつだって町内をぐるりと一周する。道で人に会う度に、ご主人は少しだけ自慢気に会釈をしていた。
そんなご主人と僕を町の人は微笑ましそうに眺めてくれるのだ。
そんな生活は、一年と、保たなかったのだと思う。
ご飯は出して貰えたけど、散歩は一日一回が三日に一回になり、週に一回になり、月に一回になり、とうとう、なくなった。
散歩がないと、僕はどうしていいかわからなくなる。
胸の中にもやもやしたものがたくさんたまって、お気に入りのぬいぐるみをたくさんぐちゃぐちゃにしてしまった。
その度に、ご主人は僕を叩いて、大きな声で怒って、雨が降ってても、雪が降ってても関係なく、僕を外に放り出した。
そんなに散歩に行きたいなら、勝手に行けばいいでしょう!?
ごめんなさい、ごめんなさい、もうワガママは言いません、ごめんなさい。
僕は鍵を閉められてしまった扉の前で途方にくれて、ぐるぐる回りながら謝る。
そうすると、うるさいと言われて、僕のお皿が投げられる。
からからからと、冷たい地面の上で弧を描いてからお皿はパタンと倒れた。
ああ、またやってしまった。
僕はなんでいつもこうなんだろう。
ビリビリに破いてしまったお気に入りのぬいぐるみは、僕をお家に引き取ってくれた頃、ご主人がくれた物だ。
せっかくあげたものを、ビリビリのぐちゃぐちゃにしたら、ご主人だって怒るに決まってる。
僕だって、あんな風にしたかった訳じゃないのに。
ビリビリにしたぬいぐるみは今頃ゴミ箱に捨てられてしまっただろうか。
カツン、カツン、と、僕のお皿に降り始めの雨が当たって音を発てる。
僕は自分が壊したぬいぐるみを思ってないた。

でも、機嫌のいい時のご主人は、凄く優しい。
ご飯は湿気ってないし、お水も濁ってない。
おやつだってくれるし、散歩にだって連れていってくれる。
そんな時のご主人は、僕をたくさんたくさん甘やかしてくれて、いっぱい撫でてくれるのだ。
ごめんね、寒かったよね。
大丈夫だよ、ご主人。僕にはあったかい毛があるんだよ。
もっと散歩に連れていくね。
大丈夫だよ、ご主人。僕、この間、外に出してもらった時、隣町のゴンのところまで行ったんだ。小屋に入れてもらってね、一晩眠らせて貰ったんだよ。
ごめんね、ごめんね。
そうしてあやまるご主人の頬を僕はペロペロと舐めることしかできない。
ああ、ご主人だってあんなことしたくないんだよね。
きっと、お仕事とかたくさん大変なことがいるのに、僕がぬいぐるみをビリビリにしたから怒ったんだよね。
可愛い、癒される。
そう言って、いっぱい抱きしめてくれる。
嫌われたわけじゃないんだ。

そう、思ってたんだけどな。
「走行中の車から投げ出されたんです。そこを対向車に引かれて…」
私、何もできませんでした。
ツンっとした匂いが充満する部屋の中、その人は搾り出すような声で泣いていた。
体が、動かない。
前脚も後ろ脚も、いくら、動け!って命令しても、ピクリとも動かないのだ。
ああ、これは、ダメなやつだ。
ほんの僅かに残った野生が告げる。
もう、僕の体は一生動くことはないのだと。
捕食されるか、餓死を待つ、だけなのだと。
放り出される直前まで、ご主人は僕のことを腕に抱いて、たくさん撫でていてくれたのに。
なんで?
なんで、僕は捨てられたのかな。
瞼を閉じて思い出すのは、ご主人の笑顔と、止まらない車。
「この子はもう、こんな身体じゃ引き取り手もないからね。このまま、死なせてやったほうが、いいのかも知れないよ」
淡々と、どこか悔しそうに男の声が響く。
そうだね。
そうじゃなくてもきっと、捨て犬はどうしたって殺処分されるんだよ。
知らないとでも、思っていたのかな。
ましてや、こんな身体の僕は生きていたって仕方ない。
「死なせません。私が飼います」
すっと、男の人は、鋭く息を吸う。
「気まぐれや同情で言われては困ります」
「そんなんじゃありません」
「人間の介護だって大変だというのに、ましてや犬なんて」
「あら」
といって、僕のケージを覗き見たその人は、目尻にたくさんのシワのある、おばあさんだった。
「ボケて物事の判断が付かなくなった私達よりも何倍も、この子は賢いわよ」
ね?と同意を求められる。
お話、全部、聞いていたでしょう?と。
「孫達も手をはなれてしまってね。鳥の巣症候群になりかけていたの。あなたが私のお家にきてくれたら、とても嬉しいわ」
そうして彼女がなんの躊躇いもなく差し出した手を、僕はがぶりと噛んだ。
狂犬病の注射はしてるから、大丈夫。
彼女は一瞬だけ痛みに顔を歪める。
それでも怖がる素振りを見せない。
僕は彼女の手を噛んだまま、低く唸った。
お願いだよ、諦めて。
もういい。
僕はもう、いいんだから。
この人の手まで噛んだんだから、僕は殺されること決定だ。
もう。それでいい。
こんな身体の僕なんだ。きっと貴方の手に負えなくて、いつかは僕を捨てる日がくるよ。
そうしたら、今度こそ耐えられない。
二度も、大好きな人に、捨てられたくない。
「捨てないわ」
彼女は静かに、そういった。
「私はしぶといから、貴方よりも長生きしてみせる。頭も足も、しゃんとしてるんだもの。それに、貴方がいれば、ボケる気がしないわ」
ごめんなさい。
彼女は、顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと大粒の涙を流す。
「だからどうか、もう一度だけ、私達人間を、許してください」
舌の上で、錆びた味が広がる。
僕は顎の力を緩めると、静かに瞳を閉じた。

2016年3月7日

サムネイル 写真素材 足成様 http://www.ashinari.com/

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