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元々恋人は忘れっぽい人だった。

2016-05-08

 

元々恋人は忘れっぽい人だった。
卵を買いに行って、卵を買い忘れてしまうような、そんな、うっかりした人で、買い物に出掛けるときには、メモをかかすことはなかったのだ。
そんな彼女の物忘れに、最近僕は違和感を覚えている。
結構前からあった代名詞での会話は、すでに日常茶飯事になってしまったころ、彼女は妙な物忘れをした。
「楽しかったね、伏見稲荷」
「こうやって写真でみても綺麗なんて、すごいよなぁ」
「また行きたいな、えっと…」
ああ、物忘れが始まった。今度は何を忘れたのだろう。
「えっと、おかしいな。私、ついさっき口にしたのよ?」
彼女の指が恐々と写真を指した。
「ここ、なんて言う名前だっけ?」と。
そこから彼女の物忘れは急速に進んだ。
物書きの真似事していた恋人は、ニュースや実際にあった事柄から空想を膨らませることが得意で、よく文章を書いていた。
「とある女性がニュースで取り上げられていてね。私、その人をモデルに書こうとしていたの」
どうして、忘れてしまったのかしら、と。彼女の頭の中の宇宙に飛んでしまったことは、大抵、戻ってはこない。
買い物のメモを無くしてしまったと、部屋の中の全てのものがひっくり返されていることもあった。
お米を入れることを忘れて空焚きした炊飯器が、あわや火事になりそうになったこともあった。
失敗をする度に、ごめんなさい、と彼女は泣きそうに頭を下げる。
もとより聡明な人だったから、さぞや歯がゆいことだろう。
夜遅くまで起きていられなくなった恋人は、僕の帰りを待ちながら、改善ノートを下敷きにしてテーブルの上で眠っていた。
メモはいつも、テーブルの上に置いておく。
炊飯器にお米を入れたことを確認してから、スイッチを入れる。
炊いてることを忘れないように、スイッチを入れたら、テーブルの上のメモ帳にメモをする。
と、失敗したことへの対策が、書かれているのだ。
最初は、落ち込む彼女を励ますために、始めてごらんと勧めたものだったが、功を奏したのか、気に入ったのか、彼女は事細かにメモを取るようになった。
これで少しでも、病気の進行を遅らせることができれば。
そんな淡い期待は、ものの見事に打ち砕かれる。
「今後、ますます忘れることが多くなるでしょう。今のうちに、施設に入所させることをお勧め致します」
担当医の言葉に、僅かにあった希望さえ、打ち砕かれる。
どうして、そんなことを伝えられるだろう。
中庭に行けば、彼女は桜を眺めて待っていた。
無邪気な笑みの広がる横顔に、今日は、笑ってくれているその顔に泣きたくなる。
「綺麗ね」
「やっぱり、桜が咲くの時期が、一番好きだな」
ふと、恋人を見れば、彼女は顔を真っ白に塗り替え、額に当てた指が、震えていた。
「桜…。そうだね、桜。私、どうして忘れてしまったんだろう」
ぼとぼとと、涙が溢れて零れ落ちる。
ここまで、病気が進行してしまっていただなんて。
膝から崩れた僕を見て、彼女は泣きながら僕に謝った。
ごめんなさい。
苦しませて、ごめんなさい。
ごめんなさい。
謝って欲しいんじゃないのに。
忘れて辛いのは、君のはずなのに。
どんどん、色んなことを忘れていく。忘れていくことが怖い。
そう言って泣いたのは、君なのに。
それから 一週間のうちに、彼女は施設に入所した。
渋ることも嘆くこともなく、驚くほどにあっさりと、彼女は自身の病状を受け入れた。
心のどこかで、覚悟していたのかも知れない。
「明日も来てくれたら、嬉しいな」
仕事終わりに彼女の下に通う僕に、彼女は控えめにそう言った。
「もちろん、明日も明後日も、そのまた次の日もちゃんと来るからね」
もう来ないで、私なんて忘れてと言われるよりも、ずっといい。

サムネイル 写真素材 足成 様

【関連文章】

いいじゃないか、僕が忘れられるくらい。

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