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慎重に彼女は母に近づき、地面に三つ指をついた。

2016-05-24

 

パァン、と。
余りにも歯切れのよ過ぎるその音に、一体何が起こったのか、わからなかった。
普段滅多に怒らない温厚な母が、般若のような顔で、彼女の頬を平手で打っていた。
そう、状況を把握していた時には既に、母は、手を上げた人物に詰め寄り、胸ぐらを掴んでいて。
「やめてくれ、母さんっ!」
住んでいる地域からは高速を乗って四十分ほどの街だけれど、誰が見ているのかもわからないこんな目抜き通りで、こんな強行に、凶行に、走る人ではないと言うのに。
「やめなよ、母さん!」
母の二発目が、彼女の頬の上で炸裂する。
なおも振り上げたその手を掴み、俺は母を羽交い締めにする。
ああ、こんな。
自分を産んでくれた人を羽交い締めにする日がくるだなんて、一体誰が想像できただろう。
「離して」
叫ぶような、鋭い声が、衆目を集めた。
きっと、俺が遊びに行くといったのをついてきたのかも知れない。
そんな、否、こんなことをする人じゃないのに。
「離したら、また打つだろう!」
「こんな!こんな女っ!!ぶっただけじゃ足らないわよ!!」
あんたなんて。
身をよじって、母は絶叫した。
「あんたなんかが、うちの息子の貴重な五年を奪って!!」
あんたなんか。
口を抑える手が、僅かに、間に合わない。
あんたなんか、子供も産めないくせに。
そういうと、母は憑き物が落ちたかのように、その場に倒れ込んだ。
周囲で遠巻きに事態を静観していたギャラリーが、一人二人と、立ち去る。
あんたもあんたよ、と母の呪いの言葉は止まらない。
「なんで、こんな女なの。他にもっともっといい人いるでしょう」
母のものとは思えない皺がれた低い声に、泣きたくなる。
コツ、コツと。
慎重に彼女は母に近づき、地面に三つ指をついた。
やめて。
やめてくれ、お願いだから。
見たくない。
「申し訳ございませんでした。息子さんの奪った時間をお返しすることはできません。しかし、これ以上、息子さんにお会いすることはございません。だから、どうか、」
息子さんをお許しください。
こんな、冷たいコンクリートの上で土下座をする君なんて、見たくなかった。
彼女は、すっと立ち上がると、俺たちに背を向け、離れていく。
雑踏に消え、見えなくなるまで彼女を目で追っていたけれど、彼女が振り向くことは、とうとうなかった。
こんな、はずじゃなかったのに。
ポタポタと、恥も見聞もなく、ただひたすらに涙が流れ落ちる。
『こんな、なあなあな関係を続けていたら、きっと、貴方のお母さんに怒られる日がくるね』
涙で滲んで、彼女の消えた道が歪む。
『何それ』
彼女は、どんな顔をしていただろう。
『だって、息子を持つ母親は、息子に恋をするんだよ』
なぜ、咄嗟に追えなかったんだろう。
なぜ、彼女の人生を負えなかったんだろう。
ああ、大好きなのに。
請われて、乞われて一緒にいた、なんて、そんなはずなくて。
彼女が会いたいというから、逢っていたのではなくて。
俺の方がよっぽど、彼女が、必要だったのに。

サムネイル 写真素材 足成 様  http://www.ashinari.com/

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